石川優子の音楽的原点 ~少女時代に育まれた才能の芽~
シンガーソングライター石川優子さん。
その透明感あふれる歌声と、心に寄り添うメロディーは、
どのようにして生まれたのでしょうか。
23歳の彼女が綴ったエッセイ『夢色気流』を紐解くと、
音楽と人との「出会い」が、
彼女をスターダムへと導いた軌跡が見えてきます。
前回ご紹介した「幼い日々」に続き、
今回は、彼女の音楽的ルーツと、運命を決定づけた人々との出会いに迫ります。
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歌声の礎を築いた7年間の合唱団生活
石川優子さんが、本格的に音楽の世界に足を踏み入れたのは、
意外にも、ギターを手にするよりずっと前のことでした。
小学4年生の時、歌うことが大好きだった彼女は、
「守口市少年少女合唱団」のオーディションを受け、見事合格。
ここから、毎週土曜日に練習へ通う日々が始まります。
この合唱団での活動は、実に7年間にも及びました。
練習はかなり厳しかったそうですが、
ここで培われた発声の基礎やハーモニー感覚が、
後の彼女の音楽活動を支える、揺るぎない土台となったことは間違いありません。
ギターとの出会いと「唯一の後悔」
合唱団で歌声に磨きをかける一方、中学3年生の時にギターと出会います。
ここから、彼女の「シンガーソングライター」としての道が、
ゆっくりと始まりました。
作詞・作曲を手掛けるようになった彼女ですが、
プロとして活動を始めてから、ある「後悔」を抱くようになります。
「このなに気なく始めたギターや、作家活動が、まさか将来の自分にかかわってくるなんて夢にも思ってもみなかったのだから、人生っておもしろいものですね。それがわかっていたら、もう少しどん欲になって、いろんなことをやっておくんだった・・・・。そう、たとえばピアノとかね。いまは、何とかコードを押さえて、弾きながら歌ったりもするけど、私の唯一の後悔というのは、ピアノを習っておけばよかったなぁ、っていうこと。」
- 『夢色気流』p50より
プロの世界で、より高いレベルを目指す中で生まれた、
音楽に対する真摯な想いが伝わってくる一節です。
とはいえ、コードを押さえて弾き語りができるレベルにまで独学で到達したのですから、
その音楽的センスと努力は並大抵のものではありません。
この「もっと上手くなりたい」という探求心こそが、
彼女を成長させ続けた原動力だったのでしょう。

フォークソングとの出会いと才能の芽生え
心酔した「かぐや姫」と高校時代の音楽活動
高校生になった石川優子さんは、音楽活動をさらに本格化させます。
1年生の時には、女の子2人組のデュオ「スリーピー」を結成。
文化祭などで演奏していましたが、このグループは2年生で解散します。
そして3年生の時、彼女の人生に大きな影響を与える親友Nさんと出会い、
仲間たちと共にバンド「ファンタスティック」を結成しました。
当時、彼女が夢中になっていた音楽とは何だったのでしょうか。
「そのころ、私はフォークグループの『かぐや姫』が大好きで、聴く音楽かぐや姫、歌う歌はかぐや姫、作る歌はかぐや姫風で、それ一辺倒だったのです」
- 『夢色気流』p53より
1958年生まれの彼女が高校3年生だったのは1975年から76年にかけて。
まさに、「神田川」「赤ちょうちん」「妹」といったヒット曲を連発し、
日本の音楽シーンを席巻した、かぐや姫の全盛期と重なります。
当時の若者たちの心を掴んだ四畳半フォークの世界に、
彼女もどっぷりと浸かっていたのです。
自作の曲まで「かぐや姫風」だったというのですから、その心酔ぶりがうかがえます。
親友Nさんが開いた新たな音楽の扉
かぐや姫一色だった石川優子さんに、新たな風を吹き込んだのが、
バンド仲間であり親友のNさんでした。
Nさんが大好きだったのは、「赤い鳥」や「オフコース」。
都会的で洗練されたサウンドを持つアーティストたちです。
Nさんは「これいいから聴いてみて」と、優子さんに彼らの音楽を熱心に勧めました。
そして、Nさんは石川優子さんの運命を決定づける、
ある「舞台」の存在を教えます。
それが、ヤマハポピュラーソングコンテスト、通称「ポプコン」でした。
運命の出会い ~ポプコンからプロへの道~
親友Nさんと共に目指した夢の舞台
「絶対ポプコンに出て、プロになりたい」
熱く夢を語るNさんに対し、当時の石川優子さんは、
「やってみてもいいね」くらいの、どこか醒めた気持ちだったといいます。
合唱団の経験はあっても、プロの世界はあまりに遠い存在だったのでしょう。
しかし、人生とは不思議なものです。
親友の熱意に引きずられるようにしてポプコンに挑戦するうち、
彼女の心にも、静かに闘志の炎が灯り始めます。
何度か予選落ちを経験する中で悔しさをバネにし、
ついにバンド「ファンタスティック」は、関西大会の決勝まで駒を進めるのです。
この頃から、彼女はプロの歌手になることを本格的に意識し、レッスンに励むようになります。
「譜面歌手」として掴んだチャンス
関西大会決勝から3ヶ月後の1978年10月。
石川優子さんは、ついにポプコン本選会の聖地・つま恋のステージに立ちます。
しかし、それはバンドとしてではなく、たった一人での出場でした。
彼女は「譜面歌手」としてステージに上がったのです。
ポプコンには、自分で作詞作曲し歌う「自作自演」の部門のほかに、
曲だけを応募し、歌は他の人に歌ってもらう部門がありました。
譜面歌手とは、その応募された楽曲を歌う、いわば歌唱のスペシャリストです。
この第16回ポプコン本選会は、後に「夢想花」でグランプリを獲得する円広志さんや、
実力派として名高い大友裕子さんが注目を集める、ハイレベルな大会でした。
才能を見抜いたS氏との運命的な出会い
スター候補生たちに挟まれ、ノーマークの存在だった譜面歌手・石川優子。
しかし、客席には彼女の未来を大きく変える人物がいました。
その時の状況を、彼女はこう振り返っています。
『(…)悪い言い方をすれば、 息抜き的存在になってしまったのです。ところが、そんなまるで注目されていない私に、ふと、 歌心を感じてくださった方がいました。それが、ラジオシティレコードの専務であるSさんでした。 Sさんと私の運命的な出会い。(…)
- 『夢色気流』 p61より
最近になって、あのつま恋の時の、私の印象を聞いたのですが、とにかく一生けんめいに歌っている姿、思いっきり歌ってやるゾーというような気迫がとても印象的だったし、ていねいに歌っているのが気に入ったと、言ってくださいました。』
この「Sさん」こそ、後に長渕剛さんや円広志さんなど、
数々のスターを発掘したヤマハの伝説的プロデューサー、木下龍太郎氏です。
彼は、無名の少女が放つ、ひたむきな輝きと才能の片鱗を見逃しませんでした。
自作の曲ではなく、他人の曲を歌う「譜面歌手」であったからこそ、
彼女の純粋な「歌声」と「表現力」が際立ったのかもしれません。
この運命的な出会いが、翌1979年のデビューへと繋がっていくのです。
まとめ:出会いが紡いだ、シンガーソングライターの誕生
今回は、石川優子さんのエッセイ『夢色気流』から、
彼女の音楽的ルーツと、プロへの道を切り拓いた人々との出会いをご紹介しました。
一つひとつの出会いが連鎖し、ごく普通の歌好きな少女を、
日本を代表するシンガーソングライターへと押し上げていったのです。
もし、親友Nさんがポプコンの存在を教えなければ、
もし、S氏が客席にいなければ、私たちの知る石川優子さんは存在しなかったかもしれません。
このエッセイが書かれたのは、デビューからわずか3年後。
ここから彼女はCHAGEさんとのデュエット「ふたりの愛ランド」の大ヒットや、
シティポップの歌姫としての地位を確立していきます。
彼女の歌声は今も、変わらぬ輝きを放っています。
次回は、石川優子さんとラジオの関係についてです。
どうぞお楽しみに。