ふきのとうのスタート
フォークデュオのふきのとう。1992年に解散してすでに31年も経っています。デュオのお二人、山木康世さんと細坪基佳さんは、まだまだお元気でそれぞれソロで歌っておられますけど、解散してから一度も共演していないという徹底ぶり。そんなこともあり、グループとしてのふきのとうはフォークの歴史の1ページになっています。今回は、そんなふきのとうのスタートを見てみましょう。
山木さんと細坪さんの出会い
この二人が出会って、初めてハモったのが、1971年10月。北海学園大学のフォークソング研究会の総会の時でした。山木さんは大学3年、細坪さんは大学1年でした。細坪さんは、その年の4月に入学したのですが、途中からの入部だったようで、10月に初めて総会に出たわけです。総会が終わった後、細坪さんは近くにいた同級生をつかまえて、ジローズの『愛とあなたのために』を歌い始めました。ところが、その同級生がうまくハモれなかった。そこに、山木さんが来たんです。きっとちょっとしゃがれたあの声で「じゃあ、俺とハモってみようか」と言ったんですね。その時の様子をふきのとうのエッセイ集『思い出通り雨』から見てみましょう。
ー 二人でハモってみたらすごくうまくいく。「見事なハーモニーだ」と周囲の連中もビックリするほどの出来だったという。仲間達の賞賛に気を良くした二人はその場で、「よし、明日からもう少し身を入れて、二人で練習してみようか」と約束したのだった。 『思い出通り雨』 p70より
その頃、山木さんはすでに作詞作曲をしていて、オリジナル曲もありました。それを練習していくうちに、ズルズルと二人で組むことになったのです。
最初のグループ名は『メロディー』
初めて人前で正式に歌ったのは、札幌市主催のチャリティーコンサートでした。ただし、その時はデュオではなく、四人編成のグループとしての出演でした。そして、1972年3月。初めて山木さんと細坪さんで『メロディー』というグループを結成。早速、バイタリス・フォークビレッジ(ニッポン放送系列)のアマチュア・フォークコンテストの北海道大会に応募します。すると、何と予選落ち! 二人は、どうもグループ名が悪いのではと思い、新しいグループ名を考えようとなったらしいのです。
『ふきのとう』ととっさに言った
『メロディー』はやめて、グループ名をどうしようということになったものの、結局決まらなかった模様。まあ、後年『メロディー』という歌を発表してはいますが、この時のいきさつと関係があるのかどうかは不明です。いずれにしましても、どこから『ふきのとう』という名前は来たのでしょうか?
再び、ふきのとうのエッセイ集『思い出通り雨』の71ページを見てみましょう。
うーん、何と瓢箪から駒じゃないですけど、単なる思い付きだったとは。でも、その思い付きが、二人にぴったりの名前だったわけです。確かに格好いい名前ではないけど、二人の素朴なフォークソングによく合うネーミングです。
竹田健二さんが送り出してくれた
こうして『ふきのとう』となった二人。いろいろなコンテストで賞を取るようになります。でも、この時点ではプロになる気は全くなかったようです。そんな時期、ふきのとうを世に送り出すうえで重要な役割を果たす人物が現れます。STVラジオの竹田健二ディレクターです。いつどんないきさつで、竹田さんが登場したのでしょうか? 松山千春と竹田さんの関りは、よく知られているし、僕も少しずつ書いているのですが、ふきのとうと竹田さんがいつ出会ったのかなど調べても分からないのです。
でも、間違いなく松山千春を送り出す前に、竹田さんはふきのとうを世に送り出しているんです。僕が好きなエピソードは、日比谷野外音楽堂で行われたコンテストに竹田さんが同行し、首都高の高架下で、二人に「夕暮れの街」を歌わせてから、コンテストに臨んだというお話。詳しくは、
をご覧ください。
この『思い出通り雨』というエッセイ集。ファンブックのような本ですが、二人の背景や初期のふきのとうの様子を知ることができる貴重な資料です。