ふきんとうだより

フォーク、藤井聡太、宮沢賢治、佐々木朗希、石川優子についてつらつら語ります

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村田兆治さんをしのぶ

村田兆治さん(72)が亡くなる

村田兆治マサカリ投法
日刊スポーツの記事の引用
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手の村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
 
隣に住む男性(67)は、外から火が見える前の段階で、「バタン、ガタンという金属がぶつかるような衝撃音が30分ほど鳴り響いてから火事になった」と話した。その音で目覚めたという。村田さんの自宅2階が燃えて、しばらくしてからガラス窓が破裂して飛び散ったのを見て、家から出て妻(63)と路上に避難した。
 
しばらくすると消防署隊員が村田さんの自宅2階から直結する外階段に村田さんを抱えて出てきたという。午前4時ごろだったという。階段の上と階段を降りてから消防署隊員がぐったりとした村田さんに心臓マッサージをして、ストレッチャーに搬送されたという。
 
村田さんが搬送される前に男性は隣家住民であることが確認され、消防署隊員から「この方は村田兆治さんですか」と聞かれたため「はい、村田さんに間違いありません」と返事をしたという。そのときの村田さんは丸首シャツに下着のパンツだけの姿。男性は言葉を発したり、体が動いているようなことは確認できなかったという。
 
村田さんが9月23日に暴行容疑で逮捕されてから「ほとんど姿をみることはなかったし、夜になっても生活をしているはずの2階の電気もほとんどついていなかった。ずっと心配していた」と男性は話した。』
コメント
この記事にあるように、村田兆治さんは2022/11/11(金)の早朝、火災で亡くなりました。他の記事によると死因は一酸化炭素中毒で、発見された時は2階の火が激しく燃えていた部屋とは別の部屋に座った状態だった模様です。また記事にあるように、村田さんが搬送された時の服装は丸首シャツにパンツだけというのはかなり不自然です。そして9/23以降、2階の電気がほとんどついていなかったのもおかしい。おそらく、何らかの理由で発表されていないことがあるだろうと思われます。金属がぶつかるような衝撃音が30分ほど続いたということですが、それが何の音だったのかも記事だけではわかりません。いずれにしても、ロッテのエースとして215勝をあげた投手の最期としては、あまりにもの悲しく残念です。
 
村田兆治のプロフィール
1949年11月27日 生まれ。 2022年11月11日死去。広島県豊田郡本郷町(現:三原市)出身。
1967年 東京オリオンズにドラフト1位で指名され入団。地元、広島東洋カープへの入団を希望していたが、当時は指名順を決めてから一人ずつ指名していく形式だったため、オリオンズが交渉権を獲得。
1974年 日本シリーズで中日を破り日本一に。胴上げ投手になりました。
1990年 現役引退。
その後、解説者・評論家・コーチなどを経験。現役時代は東京オリオンズロッテオリオンズで活躍しました。

豪快なマサカリ投法


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ダイナミックな投球フォームは、「マサカリ投法」と呼ばれていました。通算215勝で名球会入りしています。暴投148の日本記録を保持しています。唯一の日本一が暴投とというのも村田さんらしいと言えます。速球とフォークボールが決め球でした。野村克也などの一流のバッターでも、落差のあるフォークをなかなか打てませんでした。

佐々木朗希について語ったこと

村田さんは記者から佐々木朗希のことを尋ねられると、少し厳しい表情になったようです。そして、こう語りました。
(以下引用)

「朗希はもうちょっと体力をつけて『もっと勝ちたい』と言うまでにならないと。オレはイニングで延長十二回、球数は150球まで(は投げる)というふうに決めていた。なぜか。自分が交代した後の投手が打たれて、負けたのを人のせいにしたくないから」
(引用ここまで)

村田さんとしては、佐々木朗希には「もっと投げたい、勝ちたい」という意欲を見せてほしかったのでしょう。気持ちはよく分かります。佐々木朗希自身がその歯がゆさを最近語っていました。今となってはかないませんが、村田さんからプロ意識を教えられるような機会があればよかったのになあと思います。

 

人々の記憶に残ること

落合博満は2018年にこう語りました。「プロの投手の凄さを教えてもらったのは、間違いなく村田さんです。一年目の練習の時に対戦をしたことがあります。2球投げて、2球ともバットを折られました。そんな経験は初めて。あのボールはいまだに忘れられない。これ以上のボールはないと思った。」三冠王三度の落合も村田さんを尊敬しています。
村田さんは離島の子供たちに野球の指導をコツコツとしておられました。ライフワークと決めていたようです。多くの球児たちと関係者が感謝の言葉を述べています。

 

プロ意識の高かった村田さんですが、子供たちにも気さくに、だけど熱く教えていたようです。