ふきんとうだより

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怪物・江川卓のたかが野球・されど野球 〜知られざるエピソード〜

怪物・江川卓。彼のあと、松坂大輔が「平成の怪物」、佐々木朗希が「令和の怪物」と呼ばれました。江川卓は「昭和の怪物」ということになります。

江川卓のプロフィール

江川卓は、1955年5月25日福島県いわき市で生まれました。元プロ野球選手。現在68歳。高校時代は作新学院のエースとして「怪物」と呼ばれ、甲子園の本大会と予選で数多くの記録を残しました。法政大学に進学。東京六大学野球リーグで4連覇に貢献し、日米野球の日本代表にも選ばれました。プロ入りは空白の一日事件」で波乱を呼びましたが、1979年に巨人に入団。1981年には投手5冠を達成するなど、エースとして活躍しました。1987年に現役を引退し、その後は野球解説者・評論家、タレントとしても活動しています。現在はYouTubeチャンネル江川卓のたかされ」で野球に関する動画を配信しています。
 

怪物・江川卓の高校時代の伝説 〜甲子園での驚異的な記録〜

江川卓は、高校1年から3年までの間に、甲子園に2回出場しました。その予選と本大会で、驚くべき記録を次々と打ち立てました。以下に、その一部を紹介しましょう。
- 高校1年の夏の栃木県予選では、2回戦でノーヒットノーラン、21奪三振を記録しました。その後も3回戦と準々決勝でノーヒットノーランを達成し、5試合で被安打2、失点0、奪三振75という驚異的な成績を残しました。
- 高校2年の春の選抜大会では、初戦の北陽戦で19奪三振、準々決勝の今治西戦で20奪三振を記録しました。この大会での通算奪三振は60で、今でも選抜大会の記録です。
- 高校3年の夏の甲子園では、初戦の鹿児島商戦で23奪三振を記録しました。この試合は延長15回の末にサヨナラ勝ちしましたが、江川は全てのイニングを投げ抜きました。この試合は「江川の死闘」と呼ばれ、甲子園史上に残る名勝負の一つです。
- 甲子園通算成績は、6試合に登板して4勝2敗、奪三振92(奪三振率14.0)、防御率0.46という驚異的な数字です。特に奪三振率14.0は、歴代の甲子園投手の中でダントツの数字です。
巨人でチームメートとなった篠塚和典も「江川さんは高校2年の時が一番良かった」と言っていました。

なぜ「怪物」と呼ばれるようになったのか

その超高校級の実力と耳の大きな顔が漫画『怪物くん』の主人公に似ていることから「怪物くん」「怪物江川」と呼ばれるようになりました。甲子園に出場するようになる前から日本中の注目を集め、記録の多くが、他の追随を許さない次元の高いレベルにあることから、日本高校球界史上最高の投手と評価されています。

 

その怪物ぶりが今も鮮明によみがえる名著

江川卓が怪物になった日 (竹書房文庫)

 

 

高校からすぐにプロ入りしていたら?

江川の著書「たかが江川されど江川」によると、彼は早慶戦にあこがれて大学進学を固く決めていたので、高校三年生の時に、ドラフト一位で阪急ブレーブス(現オリックス)に指名されたものの、全く可能性はなかったと述べています。仮にその時の指名が巨人だったとしても、プロ入りの気持ちはなかったと断言しています。ですから、江川本人とすれば「高校からすぐプロ入りしていれば、200勝はできたのに」と言われても、意味のないことだそうです。
 
(続く)
 
今だから言える本音 〜江川卓のたかが野球・されど野球〜