ふきんとうだより

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渡辺恒雄氏逝く 毀誉褒貶の人

渡辺恒雄氏 逝去の報

2024年12月19日、渡辺恒雄氏が東京都内の病院で肺炎のため逝去した。98歳だった。戦後の日本メディアとスポーツ界に大きな足跡を残したこの人物の死去は、多くの人々にその生涯を再評価させるきっかけとなった。
 

渡辺恒雄のプロフィール

  • 1926年
    • 5月、東京に生まれる。
  • 1940年代
  • 1945年
    • 戦争が終わり、大学に復学。学生時代に日本共産党に入党するも、路線対立を理由に離党。
  • 1950年
    • 読売新聞社に入社。政治部記者としてキャリアをスタート。この時期から政治の取材に従事し、新聞記者としての地位を築き始める。
  • 1960年代
    • ワシントン支局長としてアメリカに赴任。国際的な視野を持つようになり、帰国後は編集局総務兼政治部長を務める。
  • 1970年代
    • 専務取締役主筆論説委員長に就任。新聞業界での影響力を増す。
  • 1980年代
    • 読売新聞の論調や編集方針に大きな影響力を持つようになる。特に保守的な政治観を主張。
  • 1991年
  • 1994年
  • 2004年
    • たかが選手が」という発言で大きな論争を巻き起こす。この時期、プロ野球の再編問題が背景にあった。
  • 2014年
  • 2016年
  • 2018年
  • 2024年
    • 12月19日、東京都内の病院で肺炎のため死去。98歳。
 
渡辺恒雄氏の人生は、戦後の日本社会の変遷と軌を一にして、メディア、スポーツ、政治の各分野で多大な影響を及ぼした。彼のキャリアは、新聞記者から新聞界の重鎮、プロ野球のトップへと移行し、その間には多くの議論や改革が含まれている。
 

毀誉褒貶の具体例

  • たかが選手が」発言:2004年のプロ野球再編問題で、渡辺氏は「たかが選手が」と発言。選手会の運動を軽視するこの言葉は、選手やファンからの大きな反発を招いた。
  • 選手への見方:渡辺氏の経営姿勢は、選手を「金儲けの道具」と見るかのような態度であったとして、尊厳を軽視するとの批判を受けた。
  • 政治的影響:保守的な論調で知られ、読売新聞の主筆として影響力を持ったが、一方で偏向報道や特定の政治勢力への傾斜を指摘されることもあった。
 

遺産と評価

渡辺恒雄氏の遺産は、新聞界やスポーツ界における改革と影響力に見ることができる。メディアの力と責任、スポーツの運営と倫理といったテーマで、彼の功罪は語り継がれるだろう。彼の言動は常に議論を呼び、毀誉褒貶は避けられなかった。しかし、その一方で、彼の業績は日本のメディアやスポーツ文化の発展に寄与したと評価されることも多い。
 
渡辺恒雄氏の生涯は、戦後日本の歴史と密接に結びついており、その複雑な人となりは、今後も多くの人々によって記憶され、語られることだろう。

毀誉褒貶(きよほうへん)とは

「毀誉褒貶」(きよほうへん)とは、人物や事象に対して、肯定的な評価(褒貶)と否定的な評価(毀誉)が同時に存在することを指す言葉だ。渡辺恒雄氏も、業績として高く評価される一方、尊大な発言とその根底にある差別意識ゆえに手厳しい非難も浴びてきた。