前編の記事はこちらからどうぞ。

 

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シリーズ全3回で、作品の魅力を少しずつ掘り下げていきます。中編の焦点は、ラジオの「改善」と「個人的な理由」です。さっそく原文を追いながら、一緒に味わってみましょう。

中編本文(原文抜粋)

さて実際にラヂオを聴いてから、僕は大に幻滅を感じてしまつた。「こはれた蓄音機!」これがラヂオの第一印象であつた。しかるにその後、親戚の義兄に当る人が来て、僕の家庭のために手製のラヂオを造つてくれた。これはラツパで聴くのでなく、受話機を耳に当てて聴くのである。見た所では、板べつこに木片をくつつけたやうなものであるがこれで聴くと実によくきこえる。不愉快な雑音も殆どなく、まづ実の肉声に近い感じをあたへる。これならばラヂオも仲々善いものだ。前に悪い印象を受けたのは、拡声機のラツパで聴いた為であることが、ここに於て始めてわかつた。それ以来、往来に立つて聴いてゐる人を見ると、何だか憐れに思へてならない。ラヂオは受話機で聴くに限るやうだ。

僕がラヂオを歓迎するのは、しかし単なる好奇心ばかりでなく、他に重大な理由があるからだ。元来僕は、美的教養のない人間であるために、趣味といふものを殆ど持たない、美術は全く解らず、芝居も厭ひだし、寄席は尚イヤだし、活動写真といふものも、本当には面白いと思つてゐない。ただ僕の好きなものは、唯一の音楽あるばかりだ。それも義太夫や端歌の如き、日本音楽はさらに解らず、ただ西洋音楽が好きなだけだ。これも「解る」といふ方でなく、気質的に「好き」といふだけである。

それで僕の生活的慰楽は、時々諸方の音楽会に出かける行事であるが、この音楽の演奏会といふ奴が、実にまた不愉快な気分のものである。演奏会に於ける、あの一種特別の空気、妙に厳粛になつて、悪がたく神経質になつてる聴衆。へんに尊大ぶり、芸術家ぶつた演奏者。開演中の息づまるやうな空気! とても不愉快だ。そして解りもしないくせに――否解らない故に――やたらむやみに喝采する。いつたい此等の聴衆共は、音楽を味ひにやつてくるのか、音楽会の気分を味ひにくるのか。思ふに大部分は後者だらう。彼等にとつては、あの芸術的厳粛味の気分――今や我等は、世界的名手によつて奏されるベトーベンの偉大なる芸術に接しつつあるといふ類の気分。――が、この上もなく崇高で好いのであらうが、僕にはそれが厭やでたまらぬ。

音楽の芸術的意義は何であらうか。僕にはむつかしいことはわからないが、とにかく、僕等が音楽をきく目的は、美しい旋律や和声からして、快よい陶酔と恍惚とを求めるのだ。決して「芸術的威権の気分」を味ふためではない。然るに音楽会情調といふ奴は、実に芸術の崇高的厳粛性を漂はして、気分的に強制してくるのだ。その為に僕等は悪くかたくなり、へんに重苦しい気分となつてしまつて、少しも音楽的陶酔の快よい境地に浸れない。これは日本の聴衆が、真に「好き」から音楽会に行くのでなく、一種の妙な芸術的意識で、或は文化的虚栄心で、七むづかしい気分を持つて行くからだ。そしてこの悪風潮は、上野音楽学校などの官僚趣味が、一方で少なからず養成したものだ。

解説:中編のポイント

中編では、前編の幻滅から一転、手製ラジオの登場が転機となります。まず、「受話器で聴くラヂオ」とはどんなものか、気になりますよね。当時のラジオは、街頭で使われる拡声器(ラッパ)式が主流でしたが、これは大きな音を出す代わりに雑音が目立ちました。一方、受話器とは、耳に直接当てるヘッドセットのようなもので、手作り真空管ラジオの出力に接続します。見た目は「板べつこに木片をくつつけた」簡素な装置ですが、音がクリアで、まるで生の声が耳元で響くようです。朔太郎さんの親戚の義兄さんが作ったこの機種は、1925年頃の家庭用初期ラジオの典型で、雑音を抑え、プライベートな聴取を可能にしました。現代のワイヤレスイヤホンに似て、静かな部屋で没入できる点が魅力でした。

1922年のアメリ

次に、朔太郎さんがラヂオを好む理由ですが、それは「単なる好奇心」ではなく、生活の拠り所である音楽との結びつきにあります。朔太郎さんは自ら「美的教養のない人間」と謙遜し、美術や芝居、映画に興味が薄いと告白します。一方で、西洋音楽だけは「気質的に好き」と言い、専門的な理解ではなく、直感的な喜びを求めます。日本音楽(義太夫や端歌)は「解らず」と切り捨て、ベートーベンやショパンなどの西洋曲に心惹かれるのです。しかし、演奏会は「厳粛な空気」や「神経質な聴衆」、「尊大ぶった演奏者」が不愉快で、純粋な陶酔を妨げると嘆きます。ここでラヂオが輝くのは、家でリラックスして聴ける点。好奇心を超え、日常の慰めとして位置づけられます。この自己開示が、朔太郎さんの人間味を深め、読者の共感を呼ぶのです。

批評:中編の文学的価値

この中編は、朔太郎さんのエッセイの魅力である「感覚と批評の融合」が際立つ部分です。文芸評論家の金子光晴さんは、朔太郎作品論でこの箇所を「生活美学の萌芽」と評し、手製ラジオの描写が、詩的な日常回帰を示すと指摘します。演奏会の風刺は鋭く、「ベートーベンの偉大なる芸術に接しつつある」という聴衆の「気分」を揶揄するところは、文化的虚栄心を突き、現代のSNS映え文化にも通じます。一方、上野音楽学校の「官僚趣味」批判は、大正デモクラシーの反権威主義を反映し、社会批評の深みを加えます。批評的に見て、弱点は文語体の堅さですが、それが逆に当時の知的緊張感を伝え、星4.5/5点。好奇心から情熱へ移行する流れが、読者の心を優しく掴みます。

2025年の最新情報:放送100年と『ラヂオ漫談』の再評価

今年2025年は、日本ラジオ放送開始からちょうど100周年を迎え、NHKを中心にさまざまなイベントが盛りだくさんです。例えば、11月3日(月・祝)にNHKラジオ第一で放送された特集『文豪、ラジオと出会う』では、朔太郎さんの『ラヂオ漫談』が朗読され、山田耕筰さんや平塚らいてうさんの関連エッセイと並んで紹介されました。この番組は、初期ラジオの文化的影響を振り返る内容で、朔太郎の「受話器で聴く喜び」が、現代のポッドキャスト時代に響くとして話題に。また、3月22日のRKB毎日放送では、朔太郎の新奇好きをテーマにした朗読特番がオンエアされ、放送100年フェス(渋谷キャストで3月開催)でもラジオクラフト体験が人気でした。これらの動きから、『ラヂオ漫談』が今、再びメディア史の宝として注目されているのがわかります。興味のある方は、NHKアーカイブスで過去放送をチェックしてみてくださいね。

次回予告

後編では、演奏会批判の続きから、ラヂオの「文明の利器」としての自由な魅力、そして未来への提案までが展開します。家で酒を飲みながら音楽を楽しむ、という大胆な一節に、どんな風刺と希望が込められているのか? きっと、現代の私たちに「ゆったりした楽しみ方」を教えてくれます。シリーズ完結編をお楽しみに!

中編はいかがでしたか? 朔太郎さんの音楽愛が、意外なほど身近に感じられて、こちらまで心が軽くなりました。ご感想や、関連するエピソードがあれば、ぜひコメントでシェアしてください。文学の小さな発見を、一緒に積み重ねていきましょう。