はじめに:戦後80年、遠い南の島で受け継がれる記憶
2025年、日本は戦後80年という大きな節目を迎えます。
戦争の記憶は、時とともに風化が懸念される一方で、思いがけない形で今に受け継がれている物語も存在します。
太平洋戦争における最大の激戦地の一つ、パプアニューギニア。
ここで繰り広げられた、ある日本人パイロットと現地の人々との交流、そして80年の時を経て、その息子が「お礼」のために彼の地を訪れたというNHKラジオのレポートが、静かな感動を呼んでいます。
今回は、レポートを引用しながら、美談として語られる物語の奥にある戦争の多面的な現実について考えていきたいと思います。
命を救われた父、息子に託された「お礼」の旅
物語を紹介してくれたのは、シドニー支局の松田伸子記者と、上野速人アナウンサーです。
この放送は、ある一人の男性の体験から始まります。
ラジオで語られた父の壮絶な体験
上野速人アナ:まずこの方、どんな方なんでしょうか?
松田伸子さん:はい。この方はですね、東京都に住む75歳の磯沼素(いそぬま もとむ)さんです。
松田伸子さん:父親の芳男(よしお)さんは海軍のパイロットでして、1942年にパプアニューギニアのラバウルに配属されました。その年の11月、芳男さんが乗った飛行機は敵の基地を攻撃した帰りに、前が見えないほどの大雨に見舞われまして、さらに夜になってしまい辺りが真っ暗になってしまったということなんです。で、燃料も尽きて、海岸近くのジャングルに不時着したということなんです。
幸い芳男さんに怪我はありませんでした。朝になるとですね、飛行機の周りに現地の若者が集まっていて、近くの自分たちの村に芳男さんを案内してくれたと言います。そしてお腹が空いていた芳男さんに食べ物をたくさん出すなど、温かく迎えてくれたということなんです。
そして数日後、部隊の仲間の船が芳男さんを迎えに来た時には、パパイアやマンゴーなど、たくさんのフルーツを持たせてくれ、さらにココナッツの殻で作ったお面までくれた、ということなんです。
敵地での不時着は、死と隣り合わせの状況です。

しかし、父・芳男さんが出会ったのは、敵意ではなく、温かい善意でした。食べ物や果物、そして「ココナッツの殻で作ったお面」。このお面は、父から子へと受け継がれる、80年にわたる物語の象徴となります。
80年の時を経て特定された「恩人の村」
息子である素さんは、父から繰り返し聞かされたこの「命の恩人」である村人たちに、いつかお礼をしたいと願い続けていました。
松田伸子さん:磯沼さんは、父親の芳男さんから、この村人に助けられたという話をよく聞いていたと言います。そしてこのココナッツの殻で作ったお面もですね、大事に家に飾ってあったということなんです。
父親が20年前に亡くなってから、磯沼さんは、父親を助けてくれた村の人たちに、なんとかお礼をしたいと思うようになったと言います。ただ、この村の場所がどこか分からなかったんですね。
しかし、素さんの強い思いが奇跡を呼びます。
松田伸子さん:しかし、今回、現地の旅行会社などに調査を依頼したところ、父親の芳男さんの話などから、当時日本軍の基地があったレイ、ラエという言い方もあるんですけれども、そこから船で2時間ほど離れた村で飛行機の残骸があることが分かったんです。
80年経っていますので、写真などからは日本軍のものかどうかということは判別できないのですが、なんと近くの村では、日本人のパイロットを助けたという話が受け継がれていたんです。
80年という長い歳月、父の記憶だけでなく、村人たちの記憶もまた、世代を超えて確かに受け継がれていました。
「お礼」のはずが…息子が受け取った温かい歓迎
ついに恩人の村を訪れることができた素さん。
しかし、そこで彼を待っていたのは、お礼を受け取るどころか、想像をはるかに超える温かい歓迎でした。
上野速人アナ:それで、お礼は行けたんでしょうか?
松田伸子さん:はい。そうなんです。今月上旬、磯沼さんはこの村を訪れたんです。
私たちもそこに同行させていただいたのですが、船を降りますとですね、200人ほどの村の人たちが、伝統の歌やダンスで磯沼さんを迎えました。この村にはですね、水道や電気は通っていなくて、もちろん宿泊施設などもないので、磯沼さんは村長の家に泊まったんですけれども、夜には、村の人たちが集まってきて、磯沼さんのお父さんの写真を一緒に見たり、話を聞いたりして、交流をしていました。
そして、村長の口から語られた言葉は、この物語が単なる「人助け」に留まらない、より深い意味を持っていたことを示唆しています。
松田伸子さん:村長は、「戦後、日本は平和国家となり、パプアニューギニアの発展も支えてくれている。私たちはそんな日本人のパイロットを助けたことを誇りに思ってきた」と話していました。
彼らは、かつて助けた一人のパイロットのその後の人生と、彼が属する日本の戦後の歩みを重ね合わせ、その行為を「誇り」として語り継いでいたのです。
美談の奥にある戦争の現実
このエピソードは、人間性の輝きを示す感動的な物語です。
しかし、私たちはこの物語を単なる「美談」として消費してはならないでしょう。
なぜなら、この奇跡的な救出劇の背景には、おびただしい数の死が横たわっているからです。
忘れられた激戦地・ニューギニア
ラジオの冒頭で、ナレーターはこう語っています。
ナレーション:太平洋の激戦地の1つ、パプアニューギニアには15万人の兵士が派遣されましたが、そのうち13万人が命を落としたとされます。
死亡率は9割近く。これは戦闘による死者だけでなく、その多くが飢えや病気によるものだったと言われています。補給路を断たれた日本兵は食料が尽き、ジャングルを彷徨いながら次々と命を落としていきました。「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」という言葉が、その過酷さを物語っています。
芳男さんが救われたのは、数えきれない悲劇の中の、ほんの一握りの幸運だったのです。
現地住民との複雑な関係
また、日本兵と現地住民の関係も、常に友好的だったわけではありません。
東京新聞の記事(有料)など、
当時の状況を伝える資料によれば、日本軍はオーストラリアの植民地支配から現地の人々を「解放する」という大義を掲げましたが、一方で食料の強制的な徴発や労働力の搾取などを行い、住民との間に対立が生まれることも少なくありませんでした。
芳男さんを救った村人たちの善意は、こうした複雑な歴史的背景の中で生まれた、まさに得がたいものだったと言えるでしょう。
私たちがこの物語から受け取るべきもの
素さんは、この旅を通して感じたことをこう語っています。
松田伸子さん:磯沼さんは「こうした心が通った交流が平和を守ることに繋がっていくと信じたい」と話していました。
その言葉に、私たちは心から共感します。
しかし、同時に忘れてはならないのは、戦争とは、こうした個人の善意や人間同士の「心が通った交流」の可能性を、無慈悲に、そして大規模に踏みにじる行為であるという厳然たる事実です。
この物語は、戦争の中にも希望があったという証しであると同時に、芳男さんを救った村人のような存在が、いかに稀有な奇跡であったかを私たちに突きつけます。
戦後80年。私たちは、こうした物語に触れるたびに、感動するだけで終わるのではなく、その背景にある無数の声なき死に思いを馳せ、なぜ彼らが死ななければならなかったのかを問い続けなければなりません。
いかなる理由があろうとも、戦争は人間が行う最も醜く、愚かな蛮行です。
この一つの物語をきっかけに、戦争の多面的な側面を学び、平和を希求する意志を新たにする。それこそが、芳男さんや素さん、そして名もなき村人たちの思いに、私たちが真に応える道ではないでしょうか。