ふきんとうだより

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オフコース:二つの別れが描くバンドの美学

日本の音楽シーンに確固たる足跡を残したオフコース。その約20年にわたる活動の中で、バンドの形が大きく変わる二つの重要な節目がありました。1982年の鈴木康博さんの脱退と、1989年の最終解散です。これまでの議論では、後者の解散時の方が「状況が悪かった」と語られがちでしたが、果たして本当にそうだったのでしょうか?

前回の記事「オフコースの「さよなら」はなぜ伝説になったのか?鈴木康博が脱退した本当の理由」では、鈴木さんの脱退の背景に迫りました。今回は、その続編として、オフコースというバンドが持つ独特の美学と、メンバーそれぞれの「けじめ」が表れた「クールな儀式」という視点から、二つの別れを深掘りしてみたいと思います。

鈴木康博脱退:周到に時間をかけた「卒業」の儀式

1982年6月、オフコース日本武道館での10日間連続公演という、日本の音楽史に残る偉業を成し遂げました。この華々しいステージをもって、鈴木康博さんはオフコースから正式に脱退されました 。この脱退は、当時「解散騒動」として世間の大きな関心を集めましたが、その実態は、周到に時間をかけて準備された「卒業」の儀式であったと言えるでしょう 。

 

音楽性の相違と「悪役不在」の別れ

鈴木さんの脱退の主な理由は、小田和正さんとの音楽性の根本的な相違にありました。鈴木さんはより洗練されたシティ・ポップAORを志向し、複雑なコード進行や繊細なニュアンスを追求していましたが、小田さんはよりシンプルで力強いロックサウンドを求めていたため、鈴木さんの音楽的アイデアが「摘まれてしまう」と感じることがあったそうです 。さらに、鈴木さん自身が歌詞を書くことに強い苦手意識を抱えていたことも、創作上の葛藤を深める要因となりました 。

しかし、この別れは決して感情的な衝突によるものではありませんでした。山際淳司さんが執筆したノンフィクション『Give up オフコース・ストーリー』は、当時のバンドの内情を詳細に描いていますが、そこには「悪役」が存在せず、メンバー間の激しい感情的な対立は表面化していなかったとされています 。むしろ、互いの立場を尊重した上での決断であり、「誰も悪くないのに、なぜ解散しなければならないのか?」という切ない問いが残るほど、円満な印象が強いものでした 。

 

武道館10日間公演が象徴する「けじめ」

鈴木さんは、脱退の意向を伝えてから、実際にオフコースを離れるまでに3年もの歳月をかけていました 。これは、長年のファンに「ありがとう」の気持ちを伝え、バンド活動に区切りをつけるための、計画された「卒業式」のような場であったとされています 。武道館10日間公演へのチケット応募葉書が約53万通に及んだことからも、当時のオフコースの絶大な人気と、この脱退劇への世間の注目度の高さが伺えます 。

人気絶頂期に、これほど周到に準備された別れは、まさにオフコースの持つ「潔癖性」と「ロマン」を象徴するものでした。バンドの核をなすツインボーカルの一人が、自らの音楽的探求のために、多くのファンに見送られながら「卒業」していく。それは、クールで、そして非常に尊厳のある儀式であったと言えるでしょう。

 

最終解散:小田和正の「解放」とバンドの完結

鈴木康博さんの脱退後、オフコースは一時的な休養期間を経て、1983年9月に小田和正さん、清水仁さん、大間ジローさん、松尾一彦さんの4人体制で活動を再開しました 。この4人体制期も「YES-YES-YES」などのヒット曲を出し、精力的にツアーを行うなど活動は活発でした 。

 

小田和正の「3年間限定」構想と「卒業」意識

しかし、小田さんはこの4人体制を「3年間だけやろう。3年の間に力をつけて、バンドに頼らなくてもやっていける自分になって終わろう」と周囲に語っていたとされます 。この「3年限定」という構想は、小田さんにとってオフコースとは、鈴木さんと共に作り上げ、そして終えるべきものであったという本質的な認識の表れでした 。

そして1989年2月26日、東京ドームでのライブ「The Night with Us」を最後に、オフコースは完全に解散しました 。この解散について、小田さんは後に「終わっていく喜び、解放される喜び」と表現しています 。自身の音楽人生を振り返り、「あの日、あの時、あの場所に戻れるとしたら、それはどんなシーンですか?」という問いに対し、「いや、それはもう、戻らなくていい。もう戻りたいとは思えない。全部楽しかったけど、戻らないでいいんじゃない」とコメントされており 、彼にとってオフコースの活動が完結し、その後のソロ活動へと完全に移行したという強い意識が伺えます。それは、今も続いており、小田さんは、2010年の松尾一彦のアルバム制作に一部加わったことを除くと、オフコースのメンバーとは共演していません。

小田さんにとってのオフコースは、鈴木さんの脱退と共に精神的な意味で既に「解散していた」という解釈も可能です。4人体制はあくまで期間限定のプロジェクトであり、バンドという「等身大ではない」存在から解放され、ソロアーティストとしての道を歩むことへの清々しさが、この最終解散を「小田の解放」というクールな儀式へと昇華させたと言えるでしょう。

 

残るメンバーの心情とバンドの継承

もちろん、小田さんの「解放」とは対照的に、残る3メンバー、特に清水仁さんはバンドへの強い愛着と複雑な心情を抱いていました。清水さんは、4人時代の方が「5人時代よりもやりやすかった」と語っており、解散を「ようやくバンドが混ざり合ってきたと感じていたのに…」と残念がっていた唯一のメンバーであったとされています 。大間ジローさんも解散について「答えたくないなぁ」と語るなど、複雑な思いが滲み出ています 。

しかし、東京ドームでの解散コンサートの際、小田さんが客席に向かって投げかけた「今日からはみんながオフコースだからね!」という言葉は 、ファンへの深い感謝と共に、オフコースの音楽が今後もファンの心の中で生き続けることを願う、バンドからの最後のメッセージでした。これは、バンドの物理的な終焉を超え、その精神と音楽をファンへと継承する、オフコースらしい潔い儀式であったと言えるでしょう。

 

二つの別れに共通するオフコースの美学

鈴木さんの脱退が「周到に時間をかけたもの」であり、最後の解散が「小田の解放」であったと捉えると、どちらの別れも、オフコースというバンドの持つ独特の美学が貫かれていたことが見えてきます。

オフコースは、日本の音楽シーンにおいて「特異な存在」と評されてきました。いわゆる「日本のロック史」や「日本のフォーク史」にはほとんど登場せず、マニアックな音楽評論家も彼らに対してほとんど無反応であったとされます 。しかし、彼らは芸能界とは一線を画し、独自のポップミュージックの世界を構築しました。浜田省吾さんが「(吉田)拓郎さんがブルドーザーとして切り開いた道をオフコースが舗装して、僕達が定着させた」と語るように、彼らの功績は非常に大きいと評価されています 。

彼らは常に「自分たちの音楽」を追求し、商業主義に安易に流されることなく、ストイックなまでに音楽への誠実な姿勢を貫きました。その「潔癖性」と「ロマン」は、二度の大きな転換点においても揺らぐことはありませんでした 。鈴木さんの脱退も、小田さんの「解放」も、バンドの内部で生じた必然的な変化であり、それぞれの時期におけるメンバーの心情やバンドの状況を反映した、オフコースならではの「クールな儀式」として捉えることができるのです。

 

オフコースが残した永遠の遺産

オフコースの音楽は、その物理的な活動が終了した後も、多くの人々の心の中で生き続けています。2020年には、デビュー50周年を記念して、これまで一度も実現しなかった全20タイトルのアルバムを収録した『コンプリート・アルバム・コレクションCD BOX』がリリースされました 。これは、彼らの音楽が時代を超えて愛され続けている証しと言えるでしょう。

また、小田和正さんの76年の音楽人生を辿る評伝『空と風と時と 小田和正の世界』(追分日出子・著)が2023年11月に発売され、本人インタビューを中心に、親族や友人、音楽関係者からの多数の証言が紹介されています 。小田さん自身が「もう戻りたいとは思えない」と語るほど、オフコースの活動を完結したという強い意識を持つ一方で、その音楽は今もなお多くの人々に影響を与え続けています 。

オフコースの二つの別れは、バンドの終焉という悲しい出来事としてだけでなく、彼らが貫き通した音楽への誠実さと、それぞれのメンバーが選んだ「けじめ」の形として、今もなお語り継がれています。それは、オフコースというバンドが、単なる音楽グループを超えた、一つの芸術作品であったことを示しているのではないでしょうか。彼らの音楽は、これからも私たちの心の中で、永遠に輝き続けることでしょう。