ふきんとうだより

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オフコース 出会いは風のように③|伝説のバンド「赤い鳥」との邂逅

こんにちは。オフコースの「素顔」を1977年の貴重な音楽記事と共に辿る旅、その第3弾をお届けします。

これまでの記事では、彼らがプロとしての「覚悟」を決めるきっかけから、小田和正さんと鈴木康博さんの運命的な出会い、そして音楽への純粋な情熱が育まれていった青春時代を追ってきました。

過去の記事はこちらから
① 1977年の記事で綴る、二人の少年の物語
② PPMとの出会いが運命を変えた

PPMとの出会いを機にギターを手にし、東京と仙台という遠距離をも乗り越えるほどの情熱で音楽に打ち込んだ二人。その胸にあったのは、ただ「良い音楽をやりたい」という純粋な気持ちだけでした。

今回は、そんな彼らが自分たちの実力を試すべく、初めて大きな舞台へと足を踏み入れるところから物語が始まります。そこで待ち受けていた衝撃的な出会いと、プロの道へ進む中での葛藤とは。冨澤一誠さんの筆致を通して、その核心に迫ります。

腕試しに挑んだコンテスト、そして「オフ・コース」誕生の瞬間

大学3年生になった彼らは、それまでの内輪での活動から一歩踏み出し、自分たちの音楽が外の世界で通用するのかを試すことを決意します。その舞台として選んだのが、ヤマハ主催の「ライト・ミュージック・コンテスト(L.M.コンテスト)」でした。

腕だめしにL.M.コンテストに

純粋に音楽だけをやっていた彼らが、大学3年のときに、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出演した。それまで彼らのグループには名前がついていなかったが、彼らの友だちが作っていたフォークチームに“オフ・コース”というのがあって、それをもらってオフ・コースとした。
(中略)
「ぼくらはアマチュアではずいぶん上手いと自負していた。というのも横浜でリサイタルを開いたりすると横浜で上手いといわれている他の人の偵察に来ていたり……。客観的に見ても、ぼくらより難しいことをやっているバンドはいなかった」(小田)

(『新譜ジャーナル』1977年掲載「誰も知らなかったオフコースの素顔」より引用)

ここで初めて「オフ・コース」というバンド名が誕生します。友人のグループ名をもらったという、実に安易な始まり方が彼ららしいエピソードです。後の彼らが「コースを外れた」とセルフイメージを語るようになるのは、もう少し先の話でした。

注目すべきは、小田さんが語る強い自負です。「自分たちより難しいことをやっているバンドはいなかった」。この言葉からは、ただ純粋なだけでなく、自分たちの音楽に対する確かなプライドと自信を持っていたことが窺えます。しかし、この自信は、続く全国大会で鮮やかに打ち砕かれることになります。

衝撃の邂逅。目の前に現れた巨大な壁「赤い鳥」

自信を胸に乗り込んだ全国大会。そこで彼らは、自分たちの音楽人生の針路を大きく変えることになる、衝撃的なバンドと出会います。その名は「赤い鳥」でした。

「赤い鳥」が僕たちのコースを変えた

しかし、彼らが楽屋で練習していると、そばに“赤い鳥”なるバンドが演奏していた。
「赤い鳥を聞いて、すごいなと思った。ボーカルはすごいし、やたらシンコペしまくっていたし、全国大会、これはやばいと思った」(小田)
(中略)
結局、全国大会では赤い鳥が光っていた。オフ・コースは赤い鳥に次いで2位だった。
(中略)
全国大会で“赤い鳥”を知ったこと、そして彼らと知り合いになったことで、オフ・コースはますます燃えた。それから、彼らの目標は、音楽的に赤い鳥に追いつき追い抜くことになった。

(同記事より引用)

自信は、衝撃へと変わりました。「やばい」。小田さんの短い言葉に、その時の驚愕と、ある種の敗北感が凝縮されています。

当時の「赤い鳥」は、後藤悦治郎平山泰代夫妻を中心とした、まさに規格外の実力を持つコーラスグループでした。その卓越した技術と音楽性は、アマチュアのレベルを遥かに超えていました。後に「翼をください」で国民的な名曲を生み出すバンドです。

オフコースはコンテストで2位という優秀な成績を収めましたが、彼らにとって結果以上に大きかったのは、「赤い鳥」という巨大な目標が目の前に現れたことでした。この日を境に、彼らの音楽は「純粋な楽しみ」から、「明確な目標を追いかける探求」へと変わっていったのです。

レコードは出したけれど、気分はまだアマチュア

コンテストでの活躍がきっかけとなり、彼らにはレコードデビューの話が舞い込みます。しかし、当時まだ大学4年生だった彼らは、プロの音楽家になるという決断を簡単には下せませんでした。

レコードを出したけど気分はアマチュア

大学4年といえば、同時に就職も考えなければならない時期だった。そんなときにレコードは出る。複雑な気持ちだったろう。
「ぼくはどちらをとるかなどと真剣に考えたことはなかったですね。結局、大学院に行くことになるわけですが、(後略)」(小田)
「ぼくは、卒論を準備していて卒業することになっていたんです。一応就職も九州の安川電気というところに決まっていました。(中略)結局、まだ大学にいたいということでけってしまいました。」(鈴木)
(中略)
彼らは、学生のままレコードを出してプロになってしまった。

(同記事より引用)

大学院への進学や、大手企業への就職。彼らがエリートとしての安定した未来をすぐそこに見ていたことが、この言葉からリアルに伝わってきます。音楽への情熱と、現実の人生設計との間で揺れ動く、等身大の若者の姿がそこにありました。ちなみにこのデビューシングルは「群集の中で」という曲。ライトミュージックコンテストに応募した他人の曲でした。

youtu.be

結局、彼らは「成り行きにまかして」プロの道へと進みます。しかし、その心はまだ「アマチュア」のままでした。売れたいという野心も薄く、ただ目の前の「アルバムを出すこと」だけを目標にする。この「ハングリーさのなさ」こそが、彼らの音楽の純粋さを保ち続けた魅力の源泉であり、同時に、この後長く続く商業的な不遇の時代の始まりでもあったのです。

まとめ:プロへの扉を開いた「衝撃」と「葛藤」

3回にわたってお届けしてきたオフコースを巡る物語は、いよいよ核心へと迫ってきました。今回の記事で見えてきたのは、彼らの原点を形作った二つの重要な要素です。

  • 「赤い鳥」という圧倒的な才能との出会いが、彼らに初めて明確な「目標」を与えたこと。
  • プロになる過程で、音楽への情熱と現実の人生との間で深く「葛藤」していたこと。

ただ純粋に音楽が好きだった青年たちが、巨大な壁を前にして目標を見出し、安定した未来への未練を抱えながらも、不器用なままプロの世界へと足を踏み入れていく。この「気分はアマチュア」のまま始まったプロ生活は、彼らにとって長い試練の時代の幕開けとなります。

レコードを出しても思うように売れない日々。彼らはどのようにして自分たちの音楽と向き合い、そしてあの誰もが知るオフコースへと変貌を遂げていったのでしょうか。

次回は、いよいよこの記事の最終章として、彼らが経験した苦悩の時代と、その先に見出した大きな「転機」の物語をお届けします。

(「オフコース 出会いは風のように④」へ続く)