ふきんとうだより

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オフコース 出会いは風のように②|PPMとの出会いが運命を変えた

こんにちは。オフコースの「素顔」を1977年の貴重な音楽記事と共に辿る旅、その第2弾をお届けします。

前回の記事では、彼らがプロとして歩む「覚悟」を決めた瞬間と、小田和正さんと鈴木康博さんが小学生時代に運命的に出会い、同じアメリカン・ポップスに夢中になっていった少年時代を追いました。

前回の記事はこちら
オフコース 出会いは風のように①|1977年の記事で綴る、二人の少年の物語

まだ互いを音楽パートナーとして意識していなかった二人の少年。しかし、その心の中には、同じ音楽の種が蒔かれていました。では、その種はどのようにして芽吹き、彼らを音楽の道へと固く結びつけたのでしょうか。

今回も、音楽評論家・冨澤一誠さんが記した『新譜ジャーナル』の記事を引用しながら、彼らの音楽的原点、そしてその驚くべき情熱の物語をひも解いていきましょう。

衝撃の出会い:PPMが僕たちのコースを変えた

アメリカのヒットチャートに夢中だった二人の少年。しかし、それはまだ「聴く」だけの楽しみでした。彼らを「演奏する」側へと突き動かした、決定的な音楽体験が訪れます。それは、モダン・フォークの旗手、ピーター・ポール&マリー(PPMとの出会いでした。

P.P.Mの新鮮さにビックリ

小田は高校1年のとき ある日、突然、FMから流れて来たPPMの『パフ』を聞いた。
そのとき、「これなら自分にもできると思った その頃、レコードに合わせてうたうだけでは満足できなくなっており、なにか伴奏をつけてうたいたかった そんなときに、ギターのフォークはぴったりでした」と思ったという。
さっそくギターを買ってもらい、C, F, Am, Gぐらいのコードを覚えて弾きまくった。
(中略)
ここで音楽という共通の趣味があったことで、2人は急速に親しくなり、学校の帰りには、一緒にハモりながら歌をうたって帰宅することになる。

(『新譜ジャーナル』1977年掲載「誰も知らなかったオフコースの素顔」より引用)

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小田さんが語る「これなら自分にもできると思った」という一言は、彼らの音楽人生における極めて重要な転換点です。エレクトリックで華やかなポップスとは違う、アコースティックギターと声が織りなすPPMの音楽は、自分たちの手でも表現できるかもしれない、というリアルな感触を彼に与えました。

そして、この衝撃は鈴木さんにも伝播します。同じ音楽に憧れていた二人が、ついに「音楽を演奏する」という共通の目的を見つけた瞬間でした。「学校の帰りには、一緒にハモりながら歌をうたって帰宅する」。この微笑ましい光景こそ、後のオフコースの代名詞となる、あの美しいハーモニーの原風景だったのです。

PPM(ピーター・ポール&マリー)とは?

PPMとは、ピーター・ポール&マリー(Peter, Paul and Mary)の頭文字をとったものです。1960年代のアメリカン・フォーク・リバイバル・ムーブメントを代表する、男女3人組のフォークグループです。彼らの音楽の最大の特徴は、3本のアコースティックギターと、美しく緻密に構成された三声のハーモニーにあります。そのサウンドは、シンプルでありながらも温かく、非常に洗練されていました。ボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」を世界的にヒットさせたことでも知られるように、社会的なメッセージを持つプロテストソングを歌う一方で、「パフ(Puff, the Magic Dragon)」や「悲しみのジェット・プレーン(Leaving on a Jet Plane)」といった、物語性豊かな優しい楽曲も数多く発表し、幅広い層から支持を得ました。

日本でも「モダン・フォークの神様」として絶大な人気を誇り、彼らの音楽に影響を受けてギターを始めた若者が後を絶ちませんでした。オフコースの二人も、まさにその音楽に衝撃を受けた少年たちだったのです。

ビートルズにはそれほど衝撃を受けなかった

当時はビートルズが一大センセーショナルを巻き起こしていた時代。彼らは1966年に来日しているから、小田さんも鈴木さんもリアルタイムでビートルズを知っているわけだが、次のように語っている。

ビートルズを初めて聞いたとき、ショッキングではなかった。ビートルズの良さがわかったのはもっと後でした」
さらに小田はつけ加えて、こうまで言い切っている。「ぼくはエレキをやろうとは思わなかった。やはり、あのアコースティック・ギターの感じがたまらなく好きだったから」
こうして、2人は共にフォークに興味を持ち、先程のフォーク・バンド結成へと進んで行ったのだった。
(『新譜ジャーナル』1977年掲載「誰も知らなかったオフコースの素顔」より引用)

 

東京と仙台、8時間の壁を越えて

音楽という強い絆で結ばれた二人ですが、高校卒業後、物理的な試練が訪れます。小田さんは東北大学(仙台)へ、鈴木さんは東京工業大学(東京)へと、それぞれ別の大学へ進学したのです。

普通の学生なら、ここで音楽活動は途絶えてしまうかもしれません。しかし、彼らの情熱は、そんな距離の壁をものともしませんでした。

練習のため東京と仙台を行ったり来たり

1966年、2人は大学に進学した。(中略)いずれも国立一期校で、いわゆる有名大学である。ふつうなら、この大学に入った時点で、音楽をやめるものだが、彼らは不思議と違った。
(中略)
「それと学園祭などで一週間ぐらい休みがとれたときは、ぼくが仙台へ行って、2人で練習するんです。ちょうどあの頃、車の免許を取ったばかりで運転することがおもしろかったから、車で8時間ぐらいかけて、よく行きましたよ」(鈴木)

それにしても、その執念はすさまじいものである。彼らは、仙台と東京と離れているときは、それぞれレコード・コピーをしたり、コーラスの研究をしたりして、一緒になったときは2人で練習をする、そんなことを繰り返した。

(同記事より引用)

東京と仙台。今でこそ新幹線で1時間半ほどの距離ですが、当時は車で8時間もかかる道のりでした。その長い時間をかけて、ただ二人で練習するためだけにお互いの街を行き来していたという事実に、彼らの音楽への執念がいかに凄まじいものであったかが分かります。

手紙でコード進行を教え合ったというエピソードも、二人の関係が単なるバンド仲間ではなく、音楽を共に探求する「同志」であったことを物語っています。この遠距離練習の期間こそが、オフコースの音楽的な基礎体力を徹底的に鍛え上げ、後の緻密なアレンジや完璧なハーモニーの土台を築き上げたのです。

ちなみに、小田和正さんの母校である東北大学には、今でも彼が在籍した建築学科の建物が残っており、ファンにとっては聖地の一つとなっています。

ただ「純粋に音楽が好きだった」から

なぜ彼らは、学業と両立させながら、そこまでして音楽に打ち込むことができたのでしょうか。それは、有名になりたいとか、お金を稼ぎたいといった野心からではなかった、と記事は指摘します。その原動力は、もっとシンプルで、もっと純粋なものでした。

純粋に音楽が好きだった

それにしても、こうまでしてやり続けたということは、やはり音楽が好きで好きでしかたがなかったのだろう。
彼らはともに音楽が好きだった。否、正確に言えば“純粋に音楽が好きだった”と言った方がいいだろう。人間の常として、ギターが少し弾けるようになれば、人前でうたってみたくなり、人前でうたえば受けてみたくなる。だが、彼らには、そんなハングリー的な野心はなかった。
「音楽だけやっていればいいと思ったから」(鈴木)

(同記事より引用)

彼らを突き動かしていたのは、名声欲や金銭欲ではなく、ただひたすらに「良い音楽をやりたい」という純粋な探求心でした。だからこそ、東京と仙台という物理的な距離も、有名大学での多忙な学業も、彼らにとっては乗り越えられる壁だったのでしょう。

この「ハングリーさのなさ」や「純粋さ」は、初期オフコースの音楽が持つ、どこか内省的でストイックな雰囲気の源泉となっていたのかもしれません。それは同時に、商業的な成功から彼らを遠ざける一因にもなったのですが、その話はまた別の機会に譲りましょう。

まとめ:ハーモニーが生まれた場所

今回は、オフコースの二人が音楽に目覚め、その絆を深めていった青春時代を辿りました。

     
  • PPMとの出会いが、「聴く」から「演奏する」への決定的な転機となったこと。
  •  
  • 東京と仙台、8時間もの距離を越えて練習を続けた、驚異的な情熱。
  •  
  • その原動力が、名声欲ではない「純粋に音楽が好き」という気持ちだったこと。

オフコースの美しいハーモニーは、ただの音楽理論やテクニックから生まれたものではありませんでした。それは、二人の少年が同じ音楽に衝撃を受け、物理的な障壁を乗り越えるほどの情熱を注ぎ込み、ただ純粋に音を重ねる喜びを分かち合った時間の中から生まれてきたのです。

この純粋な音楽への探求心を持った青年たちは、やがて自分たちの実力を試すべく、大きなコンテストへと挑戦します。そこで彼らを待ち受けていたものとは何だったのでしょうか。

次回は、彼らが初めて自分たちの音楽を世に問う「腕だめし」の物語をお届けします。

(「オフコース 出会いは風のように③」へ続く)