「さよなら」「Yes-No」「言葉にできない」・・・
発表から何十年経っても、私たちの心の琴線に触れ、鮮やかに情景を思い起こさせるオフコースの楽曲たち。その透明感あふれるハーモニーと美しいメロディは、なぜこれほどまでに普遍的な力を持っているのでしょうか。
その答えを探るべく、彼らがまさに大きく羽ばたこうとしていた「黎明期」に注目してみましょう。
今回は、そんなオフコースの「素顔」に迫る、大変貴重な歴史的資料をご紹介します。それは、1977年の音楽誌『新譜ジャーナル』に掲載された特集記事「誰も知らなかったオフコースの素顔」です。

執筆されたのは、日本のフォーク/ニューミュージック評論の第一人者である冨澤一誠(とみさわ いっせい)さん。ブレイク前夜の彼らに肉薄し、その本音とルーツを丁寧に記録しています。
この記事を読みながら、伝説が始まりを、一緒に旅してみませんか。今回はその第一歩として、小田和正さんと鈴木康博さんの「出会い」の物語をお届けします。
プロローグ:オフコース「覚悟」の瞬間
物語は、小田和正さんの非常に印象的な言葉から始まります。それは、順風満帆な音楽活動とは少し違う、切実な状況から生まれた「決意」の言葉でした。
■プロローグ
「ぼくらはこれまで売れてやろうなどと激しく思わなかった。いい曲を作ってうたっていればきっとたくさんの人に受け入れられると思っていた。だから、いつだって決意して何かをやろうなどとは思いもしなかった。しかし、二郎チャン(杉田二郎)が山にこもってしまってからは、なにかとり残されたような気がして、これはやばいと思った。経済的にも二郎チャンにおんぶしていたところがあったので、どん底になって、これはやんなきゃいけない、と初めて思ったものです」
(『新譜ジャーナル』1977年掲載「誰も知らなかったオフコースの素顔」より引用)
ここで語られる「二郎チャン」とは、もちろん「戦争を知らない子供たち」の大ヒットで知られるフォークシンガーの杉田二郎さんです。
当時のオフコースは、杉田さんと同じ事務所に所属し、コンサートでバックバンドを務めるなど、公私にわたり深い関係にありました。小田さんが「おんぶしていた」と率直に語るほど、杉田さんは彼らにとって音楽的にも経済的にも大きな支え、いわば「頼れる兄貴分」だったのです。
その最大の恩人が活動を休止する。それは、守られた場所から独り立ちし、自分たちの足で荒野を進まなければならないことを意味していました。この「どん底」から生まれた強い覚悟こそが、後のオフコースを国民的バンドへと押し上げる原動力の一つになったと考えると、非常に感慨深いエピソードです。
運命の出会いは、小学校6年生の帰りの電車で
時間を遡り、物語はオフコースの原点、小田さんと鈴木さんの出会いへと移ります。二人の出会いは、まるで映画のワンシーンのように運命的でした。
2人の出逢いは小学校6年の頃
バンドの形態をとって、人前で初めてやり始めたのは、この頃だったが、小田と鈴木の出会いは、それから遡ること数年前、既に2人が小学生時代にあった。小学校6年のときに、2人はたびたび塾の帰りの電車の中で顔を合わせていた。そして、くしくも中学は同じ私立聖光学院中学だった。とはいっても、ただの友だちで、まだこの頃は、お互いまさか音楽を一緒にやるとは想像もしていなかった。
(同記事より引用)
同じ塾、同じ帰りの電車、そして進学先も同じ横浜の名門・聖光学院中学校。これほど多くの共通点がありながら、この時点ではまだお互いを特別な存在として意識していなかった、という点が興味深いですよね。
まだ見ぬ未来に向かって、二人の少年が同じ電車に揺られていた。港町・横浜の夕暮れの光景が目に浮かぶようです。この何気ない日常の風景こそが、あの美しいハーモニーを生み出す壮大な物語の序章だったのです。
音楽への目覚め:「ヒット・パレード」に夢中になった少年たち
では、そんな二人が「音楽」という共通言語で結びつくきっかけは何だったのでしょうか。驚くべきことに、その音楽的な原体験もまた、ぴったりと重なり合っていました。
パット・ブーンにあこがれて
小田和正は、(中略)中学になると当時大ブームだった<ヒット・パレード>番組に耳を傾けるようになり、パット・ブーン、ペリー・コモ、そしてエルビス・プレスリー、ニール・セダカ、ポール・アンカを聞くようになる。
その頃、鈴木康博の方も、(中略)歳が同じだということもあって<ヒット・パレード>を聞き、電話リクエストに夢中になっていた。
(同記事より引用)
二人を結びつけたのは、ラジオから流れてくるアメリカン・ポップスでした。
当時の若者文化の中心だったラジオ番組「ヒット・パレード」に夢中になり、同じ音楽に胸をときめかせていたのです。
異国の文化が真っ先に入ってくる港町・横浜のハイカラな空気の中で、二人は同じ音楽のシャワーを浴びて育ちました。この共通の音楽体験こそが、後にオフコース・サウンドの根幹をなす、洗練されたメロディセンスとハーモニーの源流となったことは間違いないでしょう。
ちなみに、鈴木康博さんは現在も精力的にソロ活動を続けており、そのライブでは、自身の音楽的ルーツである洋楽ポップスのカバーを披露することもあります。少年時代に受けた影響が、今も彼の音楽の中に息づいていることが感じられます。
まとめ:すべての道はオフコースに続いていた
今回は、1977年の貴重な記事を元に、オフコースが本格的にプロとしての道を歩む決意をした瞬間と、小田和正さん・鈴木康博さんの運命的な出会いを辿りました。
- 頼れる先輩の不在が、彼らに「覚悟」を芽生えさせたこと。
- 二人の出会いが、小学生時代の偶然の連続から始まっていたこと。
- 同じラジオ番組を聴き、同じ音楽に憧れていたこと。
まるで、後のオフコース結成という未来に向かって、すべての道が用意されていたかのようです。二人が共有していた少年時代の原風景が、時代を超えて愛される普遍的な音楽を生み出す土壌となった。そう考えると、彼らの楽曲が持つ魅力の秘密が、少しだけ解き明かせるような気がしませんか。
さて、次回はいよいよ二人がギターを手にし、その運命が「音楽」を通して固く結びついていく過程を追っていきます。どうぞお楽しみに。
(「オフコース 出会いは風のように②」へ続く)