ふきんとうだより

ふきのとう、フォーク、宮沢賢治、石川優子についてつらつら語ります

MENU

岡林信康「私たちの望むものは」の逆転と変遷

岡林信康「私たちの望むものは」は、1970年にリリースされた曲です。この曲を初めて聴いたときの衝撃を、今でも忘れられません。歌詞があまりにも直截的であること、視点が完全に逆転する部分が、魂を強く揺さぶります。この記事では、その歌詞の逆転と、岡林信康のキャリア変遷を整理します。1970年の輝きから1971年の転機、そしてその後の歩みです。

 


www.youtube.com

 

歌詞の逆転構造を徹底解説

この曲の最大の魅力は、歌詞全体が「私たちの望むものは」という同じフレーズで繰り返される構造にあります。内容が前半と後半で180度逆転する点が、聴き手に強い印象を残します。

歌詞

私たちの望むものは 生きる苦しみではなく 
私たちの望むものは 生きる喜びなのだ 
私たちの望むものは 社会のための 私ではなく 
私たちの望むものは 私たちのための 社会なのだ 
私たちの望むものは 与えられることではなく 
私たちの望むものは 奪いとることなのだ 
私たちの望むものは あなたを殺すことではなく 
私たちの望むものは あなたと生きることなのだ 
 
今ある不幸に とどまってはならない 
まだ見ぬ幸せに 今跳び立つのだ 
 
私たちの望むものは くりかえすことではなく 
私たちの望むものは たえず変わってゆくことなのだ 
私たちの望むものは 決して私たちではなく 
私たちの望むものは 私でありつづけることなのだ 
 
今ある不幸に とどまってはならない 
まだ見ぬ幸せに 今跳び立つのだ 
 
私たちの望むものは 生きる喜びではなく 
私たちの望むものは 生きる苦しみなのだ 
私たちの望むものは あなたと 生きることではなく 
私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ 
 
今ある不幸に とどまってはならない 
まだ見ぬ幸せに 今跳び立つのだ 
 
私たちの望むものは 私たちの望むものは…


岡林信康「私たちの望むものは」

 


歌詞は3つのブロックに分かれています。

  • 第1ブロック(理想の社会を求める)
    「生きる喜び」「私たちのための社会」「奪いとること」「あなたと生きること」――労働者や底辺の人々の視点から、希望に満ちた社会変革を力強く呼びかけます。
  • 中間ブロック(集団から個人へとシフト)
    「くりかえすことではなく、たえず変わってゆくこと」「決して私たちではなく、私でありつづけること」――ここで集団から個人へ視点を移します。繰り返しを否定し、常に変化し続ける個人を強調する部分です。
  • 第3ブロック(逆転)
    「生きる喜びではなく、生きる苦しみ」「あなたと生きることではなく、あなたを殺すこと」――冒頭で否定した言葉が、肯定に変わります。同じ文型で正反対の内容が並ぶことで、理想を求めていた仲間を「殺す」ようになってしまう凶暴が現実であることを突きつけます。

この逆転は、1960〜70年代の左翼運動や学生運動の挫折を予見するような警告です。崇高な理想が、集団内の対立や暴力へ変わっていく過程を、歌詞だけで鮮やかに描いています。最後に「私たちの望むものは…」と未完でフェードアウトする終わり方も、深い余韻を残します。

1970年:新生岡林の頂点と「私たちの望むものは」の輝き

岡林信康は1969年9月に突然「蒸発」しました。過密スケジュールと周囲の期待に疲れた時期です。復帰後の1970年は、まさに「新生岡林」の時代でした。

失踪中にボブ・ディランを聴き、フランス学生運動の落書き集『壁は語る』などに触発され、「外に向けたプロテスト」から「自分自身へのプロテスト」へ視点を移しました。この曲は7月にシングルとしてリリースされ、同年のアルバム『見るまえに跳べ』にも収録されました。

8月の第2回全日本フォークジャンボリーでは、はっぴいえんどをバックに電化フォークで熱演。この曲を含むパフォーマンスは大喝采を浴び、岡林の復活の象徴となりました。当時は吉田拓郎がまだ本格的に台頭する前で、フォークシーンは岡林を中心に回っていました。この曲は、岡林にとって「最後の輝き」と言える位置づけです。

1971年:中津川ジャンボリーと時代交代の象徴

1971年8月の第3回全日本フォークジャンボリーは、岡林のキャリアに大きな転機をもたらしました。観客は前年の倍以上となり、食料不足やトイレ問題で会場は混乱。ジャズ出演へのブーイングからステージ占拠騒動が起きました。

岡林はメインステージで出演予定でしたが、観客が殺到し、スタッフに説得されて早めに退避。一方、サブステージでは吉田拓郎が「人間なんて」を大合唱で盛り上げ、英雄視されました。この出来事は、フォーク史で「岡林信康時代から吉田拓郎時代への政権交代」と位置づけられています。

プロテストフォークから「私生活フォーク」への潮流が加速。岡林の直截的なスタイルは「古い」と見なされるようになり、商業的な影響力が相対的に低下しました。岡林自身もこの頃、フォークからの転向を表明し、コミューン生活や農村移住を模索しました。

その後の変遷と神格化の拒否

1971年以降、岡林信康は「フォークの神様」というレッテルを自ら壊す道を選びました。1975年のアルバム『うつし絵』では演歌的要素を取り入れ、家族や日常を歌う方向へシフト。ファンからは「日和り」と批判されることもありましたが、本人は「狭い檻から解放された」と感じていました。

岡林本人はインタビューで繰り返しこう語っています。

「フォークの神様だからロックをやっちゃいけないんですよ。まして、演歌なんてとんでもないんですよ。そこが窮屈というか、なんか狭い檻に閉じ込められた嫌な重苦しいものは感じたな。」(2021年 Rolling Stone Japanインタビュー)

「俺はみんなと徒党を組んでどうこうというのがイヤなの。個人的な人間だから。」(2018年 AERAインタビュー)

神格化を拒否し、表現者として自由になる選択が、商業的なピークを過ぎても独自の輝きを保つ原動力になりました。1980年代以降は一時活動を控えましたが、2010年代に再評価され、現在も精力的に活動を続けています。

さまざまな論評と岡林本人の言葉

この曲について、多くの人が論評しています。

  • ブログ考察では、理想が破滅に変わるメカニズムを左翼運動の内ゲバに重ねて分析しています。
  • 当時をリアルタイムで生きた人は、ベトナム戦争のアメリカを比喩にした反戦歌と読み解いています。
  • 岡林本人は、フランス五月革命の落書き集から着想を得たことを明かしています。「私たちが望むものは」というフレーズに触発され、「私(個人)」の視点を強調したと語っています。また、「今まで外に噛みついてばかりいたけど、自分の中にこそ、噛みつかなければならないところがあるんではないか」という言葉は、この曲の制作背景を象徴しています。ある動画では、「自分は新宿西口に行ったこともなく、この歌が反戦や学生運動の象徴のように言われるのは心外。この歌は、自分がフォークからロックに転身したいという気持ちを表現したもの」と述懐しています。もし、そうだとすると、最後に「殺そうとした」のは、もしかしたら「フォークの神様」として膨張してしまった岡林信康自身だったのかもしれません。このあたりは、もう少し考察して別記事を組むつもりです。

今も色褪せないこの曲の魅力

1970年の頂点から1971年の転機、そして自ら神座を降りる選択まで、岡林信康の歩みは一貫しています。「私たちの望むものは」は、その転換期の象徴曲です。歌詞の逆転構造が、理想と現実の狭間で揺れる私たちの心を、今も強く揺さぶります。

時代が変わっても、個人としてどう生きるかを問い続けるこの曲は、岡林信康の表現者としての輝きを、今も証明しています。

日本のフォーク界でトップを走っていた岡林信康。松山千春にも大きな影響を与えました。当サイトでも、岡林信康の名曲やエピソードを今後取り上げていく予定です。