ふきんとうだより

ふきのとう、フォーク、宮沢賢治、石川優子についてつらつら語ります

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ふきのとう デビューから解散まで ① 

ふきのとう テレビ出演からコンサート中心への回帰

はじめに

日本のフォーク音楽シーンにおいて、ふきのとうはメジャーではないかもしれませんが、華々しくデビューしたグループと言えます。山木康世細坪基佳によるこのデュオは、1974年にデビューシングル「白い冬」で一躍全国区のスターとなりました。しかし、その華々しいデビューには、テレビ出演やプロモーション活動を通じて直面した葛藤が伴いました。この記事では、彼らのエッセイ集『思い出通り雨』(74-75ページ)を基に、ふきのとうがテレビの世界からコンサート中心の活動に戻っていく様子をひもときます。

「白い冬」の大ヒット

「白い冬」は、1974年9月21日にリリースされ、フォーク界の新人としては異例の大ヒットを記録しました。オリコン最高14位、23週チャートイン、売上18.5万枚以上を達成(白い冬 - Wikipedia)。特に地元札幌では熱狂的な支持を受け、約一か月間ヒット・ランク一位を独走しました。

しかし、ふきのとうにとってこの曲は複雑な感情を伴っていました。エッセイには、次のように記されています:

『「白い冬」は、当時のフォーク界の新人のデビュー曲としては前例がないくらいよく売れた。ヒット・チャートの10位近くまでランクされたし、特に地元札幌では強く、約一か月間ヒット・ランク一位を独走した。』

細坪基佳は当時を振り返り、こう語っています:

『「確かに今考えると、すごいことだったんだけど、当時の僕らにとっては初めての経験だし、比較する基準もなかったから「なんだ、こんな簡単なことなのか」って感じだった(笑)だから、二枚目のシングルがベストテンに入らないことの方が不思議だった。こんなハズじゃない。どこか集計間違いでもあるんじゃないかって…(笑)」』(細坪)

テレビ出演:フォークらしさとの葛藤

「白い冬」のヒットにより、ふきのとうはテレビやラジオの出演依頼が殺到しました。エッセイには、以下のように記されています:

『だが『白い冬』のヒットしたことが、結果的にはますます彼らをテレビやラジオの仕事に引き寄せていった。「歌謡ベスト10」というような番組にも出たし、「23時ショー」にも出た。若者相手のお笑いバラエティ・ショー番組に出演して、カラオケをバックに口をパクパクさせたりもした。』

しかし、テレビの世界は彼らにとって別世界でした。山木康世は、こう振り返ります:

『「僕らは、当時やっぱり、あらゆる意味でマイナー志向でしたからね。でもCBSソニーというメジャーな会社からデビューして、仕事のやり方としては他のタレントと同じように、メジャーな方向で最初からやらされた。カラオケをバックにテレビカメラに向かって口をパクパクとかね。そんなやり方をしていたらフォークのフォークらしさがなくなってしまうと思ったし、やはりナマのままのものをテレビにも持み込みたかった。だからそういう仕事は極力拒否したかったんだけど、レコード会社側にはなかなか通用しなかった」』(山木)

細坪もまた、プロモーション活動への抵抗感をこう語っています:

『「本当に僕たちにしてみれば、石にかじりついてもこの商売で食っていくんだという必死の覚悟など、良きにすれ悪しきにすれありませんでしたからね。今まで通りコンサートをやって、好きな歌をうたってゆければそれでいいと思っていたし、シングルのためのキャンペーンなど絶対やりたくなかった。そこまでして売れたいとは思っていなかったし……。本当にキャンペーンなどで旅をしていても、疲れるばっかりで面白いことなど何ひとつなかったですよ」』(細坪)

コンサート中心への回帰

テレビ出演の喧騒を経て、ふきのとうは自分たちの音楽性を守るため、コンサート中心の活動に戻っていきます。エッセイにはこう記されています:

『デビュー直後の苦闘を経て、二人がいろいろな意味でひとまわり大きくなったことは疑いない。そしてその後、さしたるヒット曲に恵まれなかったことも、ある意味で、二人にとっては幸いなことであったかもしれない。自分たちのペースで仕事をし、その時点では、自分たちの納得のいく形でレコードを制作することができるようになったからだ。』

『年間100本のペースでコンサートをこなし、お客さんも着実に増えていった。そして、デビューから現在までの約4年の間に、最新アルバム『思い出通り雨』まで含め、LP7枚、シングル10枚をリリース。一歩一歩着実に飛躍してきたことは、恐らく皆さんの方がよく御存知であろう。』

コンサートでは、ファンとの直接的な交流を通じて、彼らのフォークらしい生の音楽を届けることができました。この時期、1974年から1978年にかけての4年間で、ふきのとうはLP7枚、シングル10枚をリリースし、着実に支持を広げました(ふきのとう - Wikipedia)。コンサート中心の活動は、彼らの音楽哲学を体現する場となり、ファン層の拡大にも繋がりました。

二枚目のシングル「南風の頃」

二枚目のシングル「南風の頃」は、1975年2月21日にリリースされました。この曲は、オリコン最高50位、8週間チャートインという成績で、「白い冬」の大ヒットには及ばなかったものの、ふきのとうの音楽性を示す重要な作品です。細坪は、この曲がベストテンに入らなかったことに驚きを隠せず、「二枚目のシングルがベストテンに入らないことの方が不思議だった」と述べています。このコメントは、彼らがこの曲も当然「白い冬」のようにヒットすると期待していたことを物語っています。今この「南風の頃」を聴くと、もちろん、ふきのとうらしいフォークソング。季節感あふれる佳作であることはまちがいありません。しかし、同時にこの曲は50位にとどまったからこそ、ふきのとうは原点に帰り始めたとも言えるでしょう。ここで大ヒットを飛ばしていたら、おそらくふきのとうの二人は、テレビ界に飲み込まれてしまったかもしれません。

まとめ

ふきのとうのデビューは、「白い冬」の大ヒットで華々しく始まりましたが、テレビ出演やプロモーション活動を通じて、フォークらしさを守るための葛藤がありました。エッセイ『思い出通り雨』に見られるように、彼らは明確なプロ意識を持たずにデビューしたものの、活動を通じて自然にプロとしての自覚を深め、コンサート中心の活動に戻ることで自分たちの音楽を貫きました。この回帰は、ふきのとうの真の魅力である「生の音楽」と「ファンとの絆」を象徴しています。

本シリーズ「ふきのとう デビューから解散まで」では、次回以降、彼らのアルバム制作や代表曲の背景、解散に至るまでの軌跡をさらに掘り下げます。ふきのとうの音楽が今も多くのファンに愛される理由を、引き続きお届けします。