ふきんとうだより

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戦時下でも野球を愛した人々の記憶に迫る(2)

前回の記事では、戦時下のプロ野球がどのようにして存続し、軍部の影響を受けながらも人々の心を繋いできたかを概観しました。厳しい検閲や資源不足の中で、球場はわずかな安らぎの場として機能していましたね。

 

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今回はその続きとして、ラジオ番組「戦時下のプロ野球ファン」の文字起こし第2部を基に、プロ野球が戦争協力にどのように強いられたのか、そしてそんな時代にファンがどんな抵抗を見せたのかを深掘りします。引用をそのまま用いつつ、私の感想を交えながら、当時の人々の野球愛を振り返ってみましょう。歴史を振り返ることで、今日の平和な野球観戦のありがたみを改めて感じます。

 

戦時中のプロ野球と戦争協力

戦時中、プロ野球は単なる娯楽ではなく、軍部のプロパガンダツールとして活用されました。番組では、こうした背景を詳しく語っています。以下にその一部を引用します。

ではまず戦時中プロ野球がどんな形で戦争協力を強いられたのか伺います。その中では入場料が戦争の資金に使われたり、試合前に軍服を着た選手たちが手榴弾で投擲競技をやらされたり、野球用語に関してはストライクを良し、アウトを引けというように変えられました。そして選手は軍部にとって格好の宣伝材料だったそうです。あのベーブ・ルースを切り切り舞いさせたプロ野球創世記に大活躍したピッチャー沢村栄治さんは軍の広告塔になったそうですが、いずれも耳を疑うようなことばかりですよね。そうですね。沢村さんは軍隊に入隊してから大陸の方に渡ったんですけども、軍はそういった情報を新聞社に提供しているわけですね。まさしく軍の広告塔として位置づけていた。プロ野球を実際に検閲したのは陸軍報道部なんですけども、潰そうとは思わなかったわけで、むしろ国民の戦意向上を仕向ける道具として利用価値を見出していた。そういうことだと思うんですよ。一方でプロ野球を運営する野球連盟の方も存続するために選手の徴兵を延期させるために大学へ入学させたというこれ非常に危険な行為だと思うんですけども、徴兵の年齢になれば誰しもが兵隊にならなければいけないというのが当たり前だった時代にですね、徴兵を回避するような大学生になると徴兵の年齢が延期になるわけですけども、戦死を戦地に行かせなかった助けたという一面もあると思うんですよね。

この引用から、当時のプロ野球がどれほど軍部の影に覆われていたかがよくわかります。入場料が戦争資金に充てられるなんて、観客の純粋な娯楽が直接的に戦費に回されるなんて、想像するだけで胸が痛みますよね。試合前の手榴弾投擲競技も、選手たちが軍服姿でそんなことを強いられる様子を思うと、野球の楽しさが一気に色褪せてしまいます。野球用語の変更、例えば「ストライク」を「良し」、「アウト」を「引け」とするのも、軍事的な表現に寄せたプロパガンダの表れです。これにより、球場は戦意高揚の場と化してしまったのです。

特に印象的なのは、沢村栄治さんのエピソードです。プロ野球創成期の英雄で、ベーブ・ルースを三振に取った逸話で知られる彼が、軍の広告塔として利用されたこと。入隊後、中国大陸へ渡った情報を新聞社に積極的に提供する軍の姿勢は、国民の士気を上げるための巧みな戦略でした。陸軍報道部がプロ野球を検閲しながらも存続させたのは、確かに「国民の戦意向上」の道具として価値を見出したからでしょう。一方で、野球連盟の対応も複雑です。選手の徴兵延期のために大学入学を促すなんて、当時の時代では反逆罪に等しい危険な行為です。でも、それが結果的に多くの選手の命を救った一面があるという指摘は、興味深いですね。存続のための苦肉の策が、皮肉にも人命を護る役割を果たしたのです。

私の感想として、このような戦争協力の強要は、スポーツの純粋性を失わせる悲しい現実です。でも、当時の関係者が必死にプロ野球を守ろうとした努力は、今日の私たちに繋がっています。もしあの時代にプロ野球が完全に消えていたら、日本の野球文化は今とは違った形になっていたかもしれません。こうした歴史を知ることで、野球がただのゲームではなく、人々の絆を象徴するものだと再認識します。

野球ファンの抵抗

一方で、軍部の圧力下でもプロ野球を愛し、静かな抵抗を示したファンたちの姿が、番組の後半で描かれます。厳しい監視の中で球場に通い続けた人々のエピソードは、心を揺さぶります。以下に引用します。

それでは野球ファンがどんな抵抗を見せたのか伺います。治安維持法で逮捕され刑期を終えた経済学者の川上はじめさんや文芸評論家の青野誠一さんは特別高等警察に監視されながらプロ野球を観戦していたそうです。いつ検挙されるかも知れない状況にもかかわらず彼らを球場に向かわせたのは何だったんでしょうか。おそらく川上さんも青野さんも基本的にですね、特高から監視されている緊張感の中にはあったと思うんですけども、それ以上に本当に野球が好きだったっていうのがあると思うんですよ。でお二人とも実はあの出獄してから比較的早い段階で野球観戦に訪れているということを見てもわかると思います。まあおそらく当時同じようにですね、野球好きの方はいっぱいいらっしゃってまあ例えばなんですけども、昭和18年連合艦隊の司令長官の山本五十六が戦死したというのが新聞で公表されたんですけども、その国家にとっては非常に重要な日に、球場には6000人もの観客がいたというところで、戦争でありながら一方で野球好きの人が集まっていた。どんどんその世の中が暗くなっていく状況だったと思うんですけども、野球っていうのは日本においてですね、スポーツという競技を超えて生活の中の一つとして溶け込んで人々のある意味で勇気づけをする非常に不思議な地盤があるなというふうに感じていますけどもはい。そして当時プロ野球ファンの熱狂を伝えるエピソードとしてはこれが極めつきと言えるでしょうか。昭和17年5月24日、後楽園球場で行われた太陽軍対名古屋軍の試合はなんと延長28回という記録的に長い試合となりましたが、観客たちは誰一人として席を立とうとしなかったそうです。山際さんは観客はなぜ帰らなかったとお考えでしょうか。まず驚くのはですね、両チームとも1人の投手が28回投げ切ったということですね。太陽軍は野口二郎さんという方が344球も投げています。対する名古屋軍西澤道夫さん311球も投げていると。当然ながら見る方も344球、そして311球ですから合わせて655球を見ているわけですよね。で、球場そのものがですね、戦争を忘れさせてくれる、そんな貴重な空間だったんじゃないかなというふうには思いますけど。

この部分を読んで、まず驚くのは川上はじめさんと青野誠一さんの勇気です。治安維持法違反で逮捕され、出獄後も特高警察の監視下にありながら、プロ野球観戦を再開したのです。いつ再逮捕されるかわからない緊張感の中で、球場へ足を運ぶ動機は、何と言っても「野球が好きだったから」。出獄後、比較的早く観戦に訪れたという事実が、彼らの情熱を物語っています。当時、同じようなファンが多かったのでしょう。昭和18年山本五十六連合艦隊司令長官の戦死という国家的な悲報が新聞に載った日でさえ、球場に6000人の観客が集まったのです。戦争の暗雲が立ち込める中、野球は人々の日常に溶け込み、勇気づけの源となっていました。

そして、極めつけのエピソードが昭和17年5月24日の後楽園球場での太陽軍対名古屋軍戦。延長28回という、想像を絶する長丁場で、観客が一人も席を立たなかったそうです。投手たちの投球数、野口二郎投手の344球、西澤道夫投手の311球、合計655球を最後まで見届けたのです。この試合は、単なる記録以上の意味があります。戦争のストレスから逃れられる貴重な空間として、球場が機能していた証拠です。投手たちの根性も驚異的ですが、観客の粘り強さが、ファンの野球愛を象徴しています。

私の感想ですが、こうしたファンの抵抗は、静かながらも力強いものです。特高の目をかいくぐり、暗いニュースの日に球場を選ぶ姿は、野球が単なる娯楽ではなく、心の支えだったことを示しています。特に延長28回の試合のエピソードは、今日の私たちに「今を生きる」大切さを教えてくれます。戦時下のファンが戦争を一時忘れられたように、私たちも日常の小さな喜びを大切にしたいですね。このような歴史は、野球の文化的深みを増し、ファン同士の絆を強めるものです。

戦時下の野球が教えてくれること

今回のまとめを通じて、戦時中のプロ野球は軍部の道具として利用されながらも、ファンの熱い想いがそれを支え、抵抗の場ともなりました。前回の記事で触れたように、資源不足や検閲の中で存続した球場は、人々の希望の灯火でした。この連載を通じて、当時の人々が野球に託した想いを振り返ることで、平和な時代に生きる私たちは、より一層野球を愛する心を養えると思います。次回は、このシリーズの最終回です。お楽しみに。